|
|
|
|
|
|
|
|
JA3BAM
大林哲也 |
|
|
現在の「神戸クラブ」が誕生したのは、昭和35年(1960年)1月15日でした。 「神戸クラブ」が誕生する以前の昭和29年項にも「神戸クラブ」があったのですが、昭和34年頃にはクラブとしての活動が無く、当時神戸市内でライセンスを取得していたYMが「一度集まってFBなクラブを作ろう」と云うことになり、JA3BER丸田氏を中心とする市内中心部のローカル局が、兵庫県の独身寮「春帆寮」に集まり「うぶ声」を上げたのです。 集まった時の議題として、「クラブの名前」をどの様に付けるか?と云うことで色々と意見が出ました。例えば「山手クラブ」、「諏訪山クラブ」、「金星台クラブ」、「神戸クラブ」等々ありましたが、神戸市内であるからやはり「神戸クラブ」が一番FBではないか、と云う意見が支配的でした。当時、我々YMには以前に「神戸クラブ」と云うクラブがあったことも知らなかったのですが、その時の初代会長をされたJA3VM/JA3AAA福田氏及びJA3HF大根氏等の御尽力で再び「神戸クラブ」と云う名前にすることに決定いたしました。そして、正式に「神戸クラブ」の名前が第2回目のミーティングの席上発表されました。 そのころの運用周波数は,もっぱら7MHz A3で、一部OMは50MHz、144MHzいずれもA3でFBにやっておられました。 会長はJA3VMなれど、仕事がVY QRLのためあまり出席されずもっぱら春帆寮内のJA3BOF/JAlBKP/JA7FO氏家氏が会長代行をし、会計はJA3AYMでした。(その後JA7FOはJA1、JA3AYMは青垣町へQSY) 何しろ独身者ばかりで春帆寮のJA7FOやJA3AYMの部屋に毎夜毎夜集まり、酒もりならぬ、50MHz A3のRig製作の話、50MHz DXの話(当時はサンスポツトが多くて、VK、W、KH6、KW6、DU1等々が毎日の様に入感)に花が咲き、帰るのがいつも日が変っていました。 この様な赤ん坊クラブでも昭和35年6月には「電波の日」を記念して、三宮のそごう百貨店で6月1日〜6月5日ま公開実験を行い(RigはJA3BAMの807S、807PP、AB2、MODのA3のもの)大いに「神戸クラブ」の名声を上げ(当時の神戸新聞に大きく報道される)、約70局とQSO出来ました。 昭和34年から始まったJARL関西支部主催のモービルフィールドデー(10月)にも神戸クラブの主要メンバーが参加し、当時、生駒山が大きく見えて来てもまだ山頂とQSOが出来なかったことは(もっぱら51MHz F3)今から思えば今昔の感があります。 昭和36年1月には有志による新年会をJA3HF宅で行いました。4月の異動でJA7FOがJA1へQSYすることになり会長代行も不在となり、JA3HFが正式2代目会長となり、JA3AYMの会計とコンビで前進を始めました。その年の6月には王子公園に移動し、「電波の日」の公開実験を行い、成功の内に終りました。この年はその他にあまりアクティブな活動が無かったのですが、12月の忘年会は、JA3AYMの紹介によって諏訪山小学校北側の旅館で行なわれ、神戸クラブ名物「忘年会」の基礎を作りました。 昭和37年に入り以前から会長の考えであったことが次々とアイディアとして出てきて、「クラブ報の発行」「クラブコールの取得」「JA3YBL賞の発行」「神戸クラブ賞」等々が検討され、2月にJA3AXF、JA3HF、JA3DCB、JA3DFW、JA3BAM.各局を中心とするメンバーで神戸クラブの定款の草案が作られ、昭和37年3月18日の初総会で正式に定款が承認されました。そして3代目会長としてJA3DCB武田氏が誕生いたしました。その後クラブ報も継続して発行され、神戸クラブの歴史として書き物に残って行く時代に入って行きました。 |
|
|